昭和40年12月4日 朝の御理解



御教えに、「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない」
神様を、信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと。信心とは、神様から、信じられる氏子になる稽古だと、私は思う。「ね」。そこから、私は、神様を、いよいよ確信できる、いわゆる不動の信念も、培われてくると、こう思う。安心のおかげも、段々、頂けてくるようになると、神様から、信じられる氏子、他人がねえ、やはり、神様の言うて下さること、教えてくださること、「ね」。切々として、頼むように、言うて下さることなどに、本当に心を寄せて、そこのところに、修行の焦点を、置いていかなければ、神様に、信用して頂けれるような、おかげは受けられないと私は思う。この氏子ならば、と、神様は信じてくださる。「ね」。見込んでくださる。そういうおかげを頂きたいなとこう思うです。
御教えを、いわば、御理解を、聞く氏子は多いけれども、頂く氏子は少ないと、「ね」。いうことになるのではないでしょうかね。御大祭なら御大祭にお参りさせて頂く。「ね」。最後の、お説教を頂くと、もう、最後の御直会として、ほんとに頂いて帰る人が何人あるだろうか、「ね」。皆が、聞いてはおると、聞いて帰っただけでは、耳が肥えるだけ。「ね」。頂いて帰って、それが、血に、肉になって初めて、神様に信用される氏子ということになるんだと思う。私が、十二月の一日の、朝の御理解に、今月こそはと、例えば、もう、今年最後のギリギリのところを、皆さんに聞いて頂いた。また、お月次祭にも、そのことを聞いて頂いた。「ね」。勿論その、聞いて頂いたんです、本当に皆様聞いて頂いただけ。それを頂いている人が、まあまあ、無いですねえ。これでは、十二月の締め括りはどげんなるじゃろかと私は思うです。これは、個人の上におきましても、椛目全体の上におきましても、それを、感じます。昨日、親教会の御大祭をいただき終わりましてから、久留米の矢次さんのところの、宅祭りに、それから、御霊さんの式年祭、同時に今度、一遍に申されましたから、神様の、先祖の報告祭をあわせて、奉仕させて頂きまして、あちらへ参りました。新築の家でございますから、勿論、借家です。ですから、やっぱり、新築というのはいいもんです。「ね」。木の香のまだ、プンプンしておるような家です。あちらへ参りまして、一服して、それから、お風呂が沸いたというから、お風呂を頂かせてもろうて、いわゆるその、お風呂の中というのは、やはり、何とはなしに極楽モードが漂うておる所ですねえ。極楽、極楽と、例えば、湯船につからせて頂いて、ああ苦しいという人は居るまい。ああ情けないという人も無かろう。あーあ、こら、暑かっても寒かっても、極楽というでしょう、ようにです、「ね」。その、極楽モードの中に浸らせて頂いてから、今日から、只今から、奉仕させてもらう、色々な意味合いにおいての、お祭りがどうぞ、お心に叶いますように、「ね」。おかげ頂きますように、そのことを、祈らせ、願わせて頂いておりましたら、私の心眼に、字で、佐賀ということを頂いた。佐賀というのは、佐賀県の佐賀です。「ね」。なるほどと、こう思うんです。確かに、椛目の信心はですね、今の教団からやっぱり、おー、とはちょっと違ったものが、あるんだと思うんですね。まあ、現在、教団の、信心の上で、まあ、それを、右の喜びとでもいうならば、椛目の信心はやはり左の喜びといったような感じなんですね。佐賀の佐というのは、にんべんに左が書いてある。御結界も、ここは大体どこでも右ですけれども、左にある。ま、左ということは、だから、椛目の人達は大事にする。いわゆる、椛目の信心によって生まれてくる喜びだと、佐賀というのは。賀というのは、賀正の賀、いわゆる、喜びなのである。「ね」。その喜びを持って仕えるんだと。
昨日、私、よう恥ずかしゅうて、話さなかった事なんですけれど、ほんとに、相済まんことだと思うんですねえ。昨日、御霊様のそれぞれ三人の、式年祭があったんです。なかに一人、どうしても私の言うことを聞かない人がある。私は、これは、皆さんでも同じことですけど、先生、おかげ頂きまして有り難うございますとも、言わせなければおかんという、気持ちでおります、いつでも。でなかったら、おかげが受けられんからです。どういう難儀な問題を持ってまいりましても、どういう心の状態でありましても、ああ、おかげを頂いて良かったと、ま、そこまでは、責めて頂かなければ。返って皆さんがその、おかげを頂いたという気持ちを、右左なさるなら、これは仕方ないけれども、せめて、椛目にご縁を頂いて、お話を頂いて、「ね」。御願いをして帰るならばです。お参りさせて頂いて良かったというところまでは、私は、これは、私の責任だと思う。「ね」。ですから、これは、あの、御霊様のお祭りをさせてもらうでも、そうなんですよ。ところがその、三人の御霊様の中に、一人の御霊様がどうもその、悪う言やあ、強情でしょうけど。そしたらですね、本当に相済まん事ですけれど、もう、昨日、そのことを話そう思ったけれど、どうも、気恥ずかしうて、話さなかったんですけれど、「ね」。自分だけ腹いっぱい頂いて、といったようなことを、これに頂くんです。あらあ、もう、本当に、もう、本当に、何時の場合でもあそこはそうですけれども、最高のお料理がしてあるんですねえ。昨日も、何か、寄せ鍋のような、おご馳走がしてあった。お祭りに仕えるすぐ前ですから、大体いうたら、腹いっぱい頂いたらです、お祭りは仕えにくい。御霊様のほうには、腹いっぱいは出さずに、その、貴方ばっかり腹いっぱい食べてから、(笑い)と言うた。相済まんこと。もう、私は本当にこの、お祭りを仕える時、宅祭りでもさせて頂くときには、必ずどこも、ご馳走をして。これは何時かでございました。これもやっぱ久留米の田中さんのところでしたけれど、でしたと思います。私はもう、お祭りを奉仕する前には、必ず、ほんとに、お神酒でも頂かなければ勿体ないごと、色々おご馳走がしてあるんですねえ。そこを、みて頂いていたんです、ところがやっぱりそれは、お祭りが奉仕しにくい。そこで私は、以来、私は、お祭り前に、お神酒というのは頂かないことにしておる。「ね」。それを、もう、あんまり進められるもんだから、ほんなら、一杯だけと言うて、おビールをこう頂いて、飲み干そうとしたら、その底にです、あのビールの淵が、丸く、丁度、鎌のように欠けてですね、もう、それこそ、あれを喉にどん引っ掛けたら、それこそ大変なことだったろうと思うのです。それが残っておる、本当に慄然と致します。神様は厳しいなあと思うですね。こちらが、本気でその気にならして貰うたら、神様は、早速それを実行させようとなさる。以来、私は、もう、頂きません。「ね」。お祭りまでに、随分時間があれば、これは別ですけれども。ですから、これは、宅祭りにおかげを頂いたらです、幾らでものご馳走があってもです、いわば、六分目、七合で、おさえて、私は、食事をさせて頂くもんだと、こう、思うたです。自分ばっかり腹いっぱいになってから、御霊様に腹いっぱいのものを与えられない。ないということだと、私は思うたんですけれどね、「ね」。ですから、ま、そういう具合で、手間取りました。そして、また、話は変わりますけれども、いわゆる、お風呂の中です。ははあ、なるほど、佐賀だと。椛目的信心、そこから生まれてくる喜び、その喜びを持って奉仕するのだと。その、喜びを私が、薄いものにしたということなんでしょうね。頂いておりながら。そして、上から終わらせていただいてから、身体を洗わせていただこうと思うて、ここに出してある新しいタオルを、つけて、ここに置いた。それに佐賀相互銀行と書いてある。ははあ、後からの御理解はこれだなと、私は思うた。佐賀相互銀行なのである。相互、合い身互い、あいよかけよ、「ね」。これが大事だと。昨日なんかは、まあ、ささやかな、お祭りでございましたけれども、思いを込められーた、ま、これは、何時の場合でも感心いたしますね。あの、それも、昔の御信者さん方は違います。昔の、いわば、久留米の一流の御信者さん方と、ご一緒に、信心の稽古をなさった方達ですから、もう、その、違います、やはり。それは、内容はともかくですけれども、その、なさる事が違う。美登里会の方達がほとんど、御用に行っとります。もう、泊りがけでいっとる方すら、前からあります。たった、二十人か、二十四、五人のお祭りを仕えるのにですねえ。なるほど、あれだけのことすりゃ、ほんに、それだけ手がいるたいと思うですけれどもです。もう、そういう中に、なんち言うかその、呉越同舟とでも申しましょうか、どうも、この頃、美登里会の中の雰囲気の中にです、どうもその、変な雰囲気があるんですね。もう、あの人と一緒ならば、どうかといった、いわゆる決め方というわけではないですけれども、まあ、お互い、敬遠しおうているような向きがあるんです。それが、もう、一緒になって溶け合って、御用を頂いておるんですねえ。いわゆる、お互いに、あいよかけよの働きがそこに、現れておるわけである。ですから、そういうようなです。例えば、私と皆さんとの繋がりと同時に、「ね」。皆さんは皆さんとしての、横の繋がりがです、お互いに、信者友達である。「ね」。よか時だけの信者じゃあない。よか時だけの信心友達じゃない。本当に、難儀な時でも、苦しい時でもです。「ね」。助け合い、励ましあい、「ね」。信心の、練りあいをです、して行くということが、私は相互だと思う。そういう、相互関係と申しましょうか。「ね」。あいよかけよの関係というものがです。よか時だけではない、どのような場合でも、そういうような働きが、なされていかなければならないということ。そこが、私は、いわゆる、相互銀行である。銀行といやあ、私共が、金を借りたり、預けたりする所なんですけれども、「ね」。私は、ここの場合、銀行とは、預ける所と、言うふうに頂いていかなければならんだろうと、こう思うておる。言うならばです、私は申しました。矢次さん、こうやって、新しいお家に移らせて頂いた。ほんに、勿体ない、有り難い、という気持ちがあるか。本当に、やむをえんから、この家に移ったが、家賃も、一万何千円ち、出さんなん。早う、一丁、安かとこのよかとこば、早う変わらにゃといった気持ちじゃないか。「ね」。なるほど、その、その家は、家主さんのかもしれないけれども、家主さんのじゃない、矢次さんのじゃない、神様のお家としてです、いわば、神様が、矢次さんに、この家を預けなさったようなもんじゃと、私は思う。今でも、(ほるかいおるか?)新しい家を預けなさったんじゃ。「ほんなら、家賃なっとん、払わにゃよかばってん」。そういうことでは、信心は、生まれてこない。本当の良い信心にはならん。「ね」。何か自分の、思うようになっておる。例えば、家なら、家を探させて頂いておりゃ、手頃な家で、しかも、場所が良うて、今までよりも、一段、便利の良いところにおかげを頂いたでなからなければ、おかげを頂いたとはよう言わん。自分の思うようにならなければ、おかげとは言わん。寂しい。「ね」。心がいらいらする。おかげと、実感しきらないから。「ね」。御神意の深さというのは、どこにあるやら分からん。借家であろうが、自分が建てた家であろうが、「ね」。やはり、神様から、預けられるのじゃ。より良いものを、より沢山預けていただくためには、やはり、こちらが、銀行にならにゃいかんでしょうが。勿論、神様が預けなさるのです。私が、例えば、一千万のお金をもっとったとするならばです、「ね」。これは、例えば、どっからか借って来てもです。例えば、私が、それを使うことを自由に許されておるならばです。銀行の金であろうが、ここに私が、お供え頂いておる金であろうが同じなんだと。「ね」。いわば、神様が、私に、信用して、私に預けて下さったんだと、「ね」そこで、みなさん、私が一番初めに申しますように、神様に信用される、もう、あの氏子には、何を預けても良いと、といわれる信心を頂かなければならんでしょうが。もう、あれに、金どん預けるならそれこそ、それを使い自由に許すと、許しておると言うたもんのです。あげな使い方するごたるなら、もう、預けられん。と、次に預けられないことになるでしょうね。これだけじゃありません。一切がそうです。神様の御神意を頂くと、神様が一切を預けて下さる。命だって、健康だって、物だって、金銭だって、「ね」。その、自由を預けておるものに許される。それを、御徳とも言うわけなんです。「ね」。私の、修行中に、福岡の教会にお参りさせて頂いておるころでした。あの、難儀な問題を沢山持っておりますから、そのことを、繰り返し、繰り返しお願いさせて頂いておった。あの当時に、私は、神様から、それぞれ、色々とお知らせを頂いておった、もう、すでに。その時その時の、私のことを取り次いで下さる方が、何時も違うておった。久留米の初代のときもあった。福岡の初代の時もあった。小倉の桂大先生の時もあった。そして、色々、修行の上に、おかげの上にお取次ぎを下さった。そういう時代である。そこに、神様からです。本当にお前は、幸せな男じゃということを頂くんです。「ね」。桂といやあ、桂が出てから、お前の世話をしてくれるし、石橋といやあ、久留米の石橋が、お前を、いわば、信心の面倒を見てくれるし、良い指導そしてくれるし、良い師匠を持ってから、まあ、お前は幸せだぞという意味の事を頂くんですから、私は、それにお答えしてです。本当に、私のように、信心も出来ません者が、こういう、素晴らしい、有り難い御徳を頂いて、勿体ないことではあると。いままで、夢のように思いよった。神様から、お声を頂いたり、御霊様のお知らせを頂いたり、もう、本当に、夢のようにしか思っていなかった事が、実際私の上に、こうやって起きてきておる。本当に、結構な御徳を頂いて有り難うございますと言うてから、お礼をもうさせて頂いたら、神様から、お前は、その徳を、自分で頂いておるかと、神様が仰った。私は、重ねて、おかげを頂きまして有り難うございますと言うて、申し上げたら、お前のはね、お前の徳は、貸し物ぞと仰る。借り物じゃと。とたんに、そんなことありますまいと、また、思うたんです。私んげな、信心は大体、こげな、神の声を聞くとか、御霊様と話し合いが出来るとか、「ね」。とてもそげなこつが、出来るはずがない、自分の信心な、自分が一番ようしっとる。このくらいな信心でいただけるとは思えんと、こう私は、そん時、また少しは思うた。思うたら、またそれに、追いかぶせるようにしてから下さった事がですね。けれどもね、けれども、例えば、ほんなら、一生借り通せば、そのほうのもんじゃと仰った、神様が。一生借り通せば。ですから、何時神様から、御徳を引き上げられるやら分からんと。これは、教祖の神様でもそうでした。「ね」。皆が、生神、生神と、自分のことを、生神様のように言われるけれども、自分でも、何時神様からです、お暇が出るやら分からんと、言うなら、戦々恐々として、そのことにあたり、実意丁寧な家業を尽くしておられます。「ね」。何時神様から、お暇が出るやら分からんと。これが、教祖のご信心の、いわば、姿勢であり、態度であった。私も、その時、自分で思うた。なるほど、頂いてるのじゃなかろ、借り物どころじゃなかろと、で、そのことを改めてお礼を申させて頂いたら、神様から、一生借り通せば、そのほうのものじゃと仰る。神様の御神縁頂いて、「ね」。お金を預けてくださり、家を預けてくださり、さまざまな、例えば、幸せになっていく元を、神様が私に預けてくださる。信用がなからなければ、預けてくださる筈がなか。そうでしょうが。○○銀行という、立派な銀行だからこそ、皆さんが安心して、お金を預けることが出来るように、神様とても同じこと。私共の、人間そのものをです。この男になら大丈夫と。「ね」。この女になら、何を預けてもと言われるだけのです。私は、信心を頂くために、本気で、皆さんがです、御教えを聞くのじゃない、頂くのであるということを、もちっとね、私は、素直に、「ね」。もちっと、そのことを持って信心の稽古というならばです。そういうことを本気で、授与する、素直に、「はい」とこう立ち上がれる、「ね」。それが必要じゃないかと、こう思うのです。頂いてこそ、血に、肉になるのである。それを頂いてこそ、神様がです、の、ご信用というものが、いよいよ増していくもんだと、私は、確信いたします。もう、あればっかりは、幾ら言うて聞かせたっちゃ、聞くばっかり。肥しどんばっかりなってから、全然、血に、肉にならんと仰るような方に、どうして神様が、いわゆる、より良いものをお預けくださる筈がない。「ね」。形ばっかりの人になっちゃ出来ん、口ばっかりの人になっちゃ出来ん、「ね」。本当に、いわゆる、心からの人にならないと。私は、昨日、矢次さんところで、佐賀相互銀行と、言うことについて御理解を頂いて、本当に、そういうおかげを頂かせていただかにゃならんなという。それにはです、例えば、私共には、やはり、一つ、精進が必要なんです。何時も、お祭りを使える前に、腹いっぱい、幾らご馳走があるからといって、頂くようなことでは、かえって、御霊様のお祭りをさせて頂いてから、御霊様から、あんたばっかり、腹いっぱい食べてと言われる様な事になってくる。「ね」。ですから、ほんなら私が、ほんなごつそうだった。そんなら、どげなご馳走があっても、これからは、ただ、言うならば、六分、七分目ぐらいで、抑えておくくらいな、精進は、させていただかにゃならんなあと、私は感じた。そこから確かに、佐賀のお許しを頂く、いわゆる、椛目的信心の喜びというものをを下さる。その、椛目的信心の喜びを頂くから、「ね」。お風呂だけが極楽モードじゃない、それとは、反対のことの中にもです、極楽モードというか、有り難きと言う信心ができる。自分の思うようになった時だけが有り難い、思うようにならなければおかげではない。そういうような考え方の中には、神様のご信用は、勿論のこと、おかげの頂けるはずが無い。「ね」。お風呂の中に、有り難い、ああ、有り難いと、夏でも、冬でも、これなら確かに、有り難いことは間違いない。誰でも、有り難いと思うことを、有り難いとおもうたっちゃ、これじゃ信心の稽古にも何にもならんじゃないか。稽古とは、そういう例えば、反対のこと。本当のことを言うたら、おかげなんだから。本当のことを言うたら、それがおかげなのだから。その、本当のおかげを、本当のおかげとしてです。私共の心に、感じられる信心をね、頂いて行く為に、私は、教えを本気で、聞くのじゃいかん、本当に、頂いていかなければいけないというふうに思うのです。どうぞ。